誕生日は次の地点に向かう通過点

4月11日で満79歳になりました。60歳の還暦、70歳の古希、77歳の喜寿、数え年80歳の傘寿。これらの年齢は私の人生における通過点でした。これまで一本道を歩まず、いろいろ寄り道をしてきました。決して順風満帆とは言い難い仕事人生のイベントを書き出しながら、これからの在り方を、模索しているところです。

【年齢】

【仕事人生のイベント】

1945年

福井市に生まれる

1964年~1968年

(19歳~23歳)

東北大学工学部に入学

  • 大学時代は受験燃え尽き症候群で、遊ぶ呆けて勉強しなかった。

1968年~1972年

(23歳~27歳)

大学での専攻を活かすため、京浜工業地帯にある某鉄鋼メーカーに就職

  • 上司の過酷な働き方を見て、将来の自分を想像し、4年で退職。
  • そして地元福井へUターン。

1972年~1990年

(27歳~45歳)

Uターン 地元の製造業(T社)に就職

  • 中小企業の現実に対応できず悶々としながらも、社長の飴(昇進や海外への出張同行、旅行など)に懐柔され18年間を過ごす。

1990年~1993年

(45歳~48歳)

IT業界へに転身

  • T社でお付き合いのあったMさんから地元IT企業M社への転身を進められ、取締役として転職する。

1993年

(48歳)

会社の身売り、多額の債務

  • バブルが弾けて、M社は業績が悪化。会社は身売りとなった。
  • 資金繰りのため、社長とともに根抵当権を設定して連帯保証をする。社長を含め3名の役員は借入金の債務を背負うことになる。
  • 社長は自宅を売却し債務の一部を返済し、その後夜逃げ。私ともう一人の役員で、夫々一人1800万円を返済することになった。

1993年~1995年

(48歳~50歳)

IT企業への再度の転職

  • 中学の同級生が役員でいる地元のIT企業S社に就職する。
  • この企業ではPC事業部の部長として、パソコンのアプリ開発・販売を推進。
  • バブルの後遺症から抜け出せず、経営は苦しかった。社員の給料遅配が常態化し、前職での債務返済もあることから退職。

1995年~1996年

(50歳~51歳)

半年の無職

  • 半年は無職の状態で家計が苦しい中、次女は大学受験だった。彼女は親の気持ちを忖度(?)し、地元の大学を受験し入学する。
  • この間、知人を頼って就活をしていた。面接を受けても自分から断ったり、数日働いて厭になって断ったりして、気持ちが落ち込んだ日々が続く。
  • 働かず家で暗い顔していた私にMさん(IT業界に転身を進めてくれた人)から電話があった。「今どうしているの。面白い仕事があるので、一緒にやらない?」かと。この電話は以後のビジネス人生の大きな転機となった。

1996年~2002年

(50歳~57歳)

インターネット・ビジネス開始

  • 電話をくれたMさんの親戚筋にあたるK社(当時のJASDAQ市場に上場)の常務取締役Yさんと一緒にインターネット・ビジネスを開始するため、K会社の子会社Kデータセンターに役員として入社。
  • 1996年は、日本でインターネットが商用利用になって3年後で、その当時のブラウザーはMosaic、通信速度は300bps程度、電子メールの設定も簡単ではなかった。
  • そんなインターネット環境下でシリコンバレーにあったSPI社と洋書の輸入販売を開始した。同社は、当時シリコンバレーの旗手として多くのメディアに取り上げられていた杉本理氏が立ち上げた会社だった。
  • 契約した全国の書店の洋書専用HPからスタンフォード大学の洋書DBを検索して洋書を注文し、注文された洋書は書店経由でユーザーに配送されるというBtoBtoCのビジネスモデルだった。
  • ほぼ同時期の1994年、Amazonが一般ユーザーを対象としたBtoCのビジネスモデルで今の形のインターネット・ビジネスを開始した。

2002年

(57歳)

突然、Kデータセンターの役員を解任される

  • Kデータセンターの業績も順調に推移していた2002年5月、突然、親会社のトップから解任された。理由はいろいろあったのだろうが、ここでは明らかに出来ない。
  • これからの仕事人生は人の思惑に左右されたくないとの強い想いから、会社創業の準備を始める。

(株)ナレッジ21創業

  • その年の7月、金沢市で有限会社ナレッジ21(k21)を設立し、その後株式会社に商号を変更。幸いにも、前職のKデータセンターから6名の社員がK21に入社してくれ、順調に創業することができた。
  • その後も、密かにKデータセンターの社員対しK21への転職を画策し、ソフトウエア開発(請負)と研修という二つの事業で経営を回していった。

ITコーディネータ資格取得

  • 前年の2001年、創設されたITコーディネータ(ITC)資格制度の試験に合格。翌年2002年にケース研修を受講して、ITC資格を取得。

2006年

(61歳)

合同会社アイティ経営ラボ設立

  • K21の売上が5,000万円を超えてきたので、節税対策として子会社(私の100%出資会社)合同会社アイティ経営ラボを福井市に設立。

2007年

(62歳)

リーマンショック

  • 請負の仕事が激減し、経営的に厳しい時期が3年ほど続く。請負ソフトウエア開発の社員3名を休業扱いの自宅待機とする。

2008年~2013年

(63歳~68歳)

社員への依願退職、苦しい時代

  • 自宅待機3名には、依願退職してもらう。さらに研修事業から撤退し、インストラクター3名にも依願退職してもらう。
  • 残ったスキルの高い社員4名と外注1名で経営の立て直しを図る。この時点で借入返済額は600万円あり、苦しい時代が続く。
  • 2011年から経営も黒字となり、返済も次年度で完済の状態にまでなった。

2014年

(69歳)

k21を事業承継

  • 取引先N社のTさんから「横屋さんの会社、どうするの?」と問われる。
  • そのとき私は69歳、このまま私が経営者としてK21を続けるのか、誰かに事業承継するのか、大きな課題を突き付けられた。
  • この頃の私は、残った社員とともにもう一度頑張るんだという経営者としてのマインド(熱意、ミッションなど)が薄れていた。

ITコーディネータ協会(ITCA)の理事就任

  • 北海道のA氏とともに、ITCAで初めてとなるITCの理事として就任。

2014年~2021年

(69歳~76歳)

K21はN社の子会社として再スタート

  • K21の社員の継続雇用及び待遇(給与水準、賞与など)の改善を条件にN社からの事業承継(M&A)を承諾。
  • N社からは、事業承継後も引き続きK21に役員として残って欲しいとの要望があり、会長その後相談役として残る。
  • N社のバックアップもあり、業績は以前より向上し、社員の待遇も改善された。

2021年

(76歳)

K21を退職

  • これまでの経営者とITC活動の2足の草鞋から、1足を脱ぎ、合同会社アイティ経営ラボとして本格的にITC活動に専念。

2022年~

(77歳~)

ITコーディネータ協会の副会長に就任

  • 同年2月、協会の澁谷会長(当時)から副会長就任の要請があった。この歳になってと思い悩んだが、これまでITC制度で育てられた恩返しだと自分に言い聞かせ、協会活動に割く割合を1/2とすることを条件に承諾。

2024年4月

(79歳)

これからどうする?

仕事をするとは

私はこれまで、働いて給料や報酬をいただく、世間で「仕事」といわれる仕事をしてきました。一般的に仕事とは、会社に仕える、人に仕えて給料や報酬をいただくことを意味していますが、仕事にはもう一つの意味があることを知りました。「事に仕える」です。事とは人によって様々。ボランティア活動、地域貢献活動、モノを作る創作活動など、自分が一生懸命になれること、心から打ち込めることなど、収入が伴うか否かは問いません。大事なことは、「事に仕える」仕事を含めて、広い意味での仕事をしている人は、年を重ねても元気だということです。

私の「事に仕える」仕事

私の人生のイベントを振り返ると、会社や組織でのポジションをバトンタッチしながら、又は強制的にバトンタッチさせられながら、次の仕事をしてきました。今年6月には、ITコーディネータ協会副会長のバトンを若い世代に渡す予定です。私の後半人生の多くは、ITコーディネータ制度に関わり、人からの信頼の大切さを学ぶことが出来ました。これからは、北陸で私のケース研修を受講しITC資格を取得した方が、この先も決して資格を失効することなく、ITCらしく活動し、ITCが職業となるようフォローアップしていきたいと考えています。これが私の「事に仕える」仕事です。今後もゴールを設定することなく、加齢は次の地点に向かう通過点だと思い、仕事をやっていくつもりです。